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【アラベスク】  第15章 薄氷の鏡



第3節 狐と鶴 [7]




「なんですか?」
 恐々(こわごわ)と訊ねる美鶴へチラリと視線を投げ、ユンミは低い声を吐いた。
「血よ」
 そうして今度は首を捻って美鶴と向かい合う。
「これ、あなたがやったの?」
「え?」
「あなたが慎ちゃんをこんなふうにしたの?」
「あの」
「何をしたの? 慎ちゃんに何をしたのよ?」
 それまでとは違う、気怠(けだる)く鼻にかかるような甘ったるい声とは違った責めるようなキツい語調。美鶴を狼狽させる。
 何をしたって、私はただ霞流さんを振り解こうとして身体を捩って、それで両手で、突き飛ばしただけで。
 突き飛ばして、霞流は壁に激突した。そうして倒れた。
「私の、せい」
 全身から血の気が引くのを感じた。
 呆然と霞流を見下ろす美鶴の脇で、ユンミが素早く携帯を取り出す。
「救急車を呼ぶわ。それから警察」
「け、警察?」
 声をあげる美鶴に、ユンミは鋭い視線を投げかける。
「当たり前でしょう。これは立派な傷害事件よ」
「傷害事件」
「慎ちゃんにもしもの事があったら、アンタ、責任取りなさいよ」
「せ、責任って」
 あまりの展開に言葉を失った。
 責任って、警察って、どういう事? 慎ちゃんにもしもの事って、霞流さん、どうなっちゃったの?
 混乱したまま何もできない美鶴。その横で携帯を操作し、耳に当てようとしたその手を、白く細い指が弱々しく制した。
「やめ、ろ」
「慎ちゃん?」
 ユンミが慌てて身を屈める。
「大丈夫?」
「頭が痛い」
「救急車呼ぶから。それから警察」
「やめろ」
 喘ぐような声。苦しそう。
「呼ぶな。騒ぎは御免だ」
「でも呼ばないと」
 ユンミの言葉に霞流はしばらく無言で呼吸を整え、やがて小さく呟いた。
「タクシーを」
「え?」
 霞流は、そのままよろよろとユンミに添えていた手を下ろす。そうしてバタンと地面に落とし、そのまま動かない。
「霞流さんっ」
「慎ちゃんっ!」
 呼びかけてもゆすっても、霞流はピクリとも反応しない。ユンミが顔を近づけ呼吸はしている事を確認してから、小さくため息をついて身を起こした。そうしてしばらく無言で霞流の顔を眺め、決心したように携帯を操作した。
「あの、ユンミさん」
 震える声で問いかける美鶴へ、ユンミは声だけで応じる。
「タクシーを呼ぶわ」
「え?」
「私の部屋へ連れて行く。とにかくここは寒過ぎる」
 だが、携帯の画面を見ながらチッと舌打ち。
「繋がらないわ。電波が弱い」
 そう言って立ち上がり、表へ出ようと一歩踏み出してから振り返った。
「タクシー来るまでここに居るのよ」
「え? 私?」
「当たり前でしょ。事件の当事者なんだから。逃げるんじゃないわよ」
 逃げるの一言に、美鶴はゴクリと生唾を呑んだ。





 なんでこんな事になっちゃったんだろう?
 美鶴は壁に背を預け、膝を抱えてため息をついた。傍らのベッドでは霞流が寝ている。頭に巻いた包帯が痛々しい。ユンミがガーゼと一緒にぎこちなく巻いた。ところどころが血で汚れている。
 傷、そんなに酷いのかな?
 ユンミが処置をしている間、美鶴は何もできなかった。手伝うと一度言ったが、すごい剣幕で怒鳴られた。
「アンタ、怪我の知識でもあんの? 素人なんて足手まといよっ! だいたい、誰のせいでこうなったと思ってんのよっ!」
 非難めいた視線を向けられ、美鶴はもうそれ以上は何も言えなかった。
 きっとユンミさんも必死なんだ。
 なんとか包帯を巻き終わり、ベッドへ横たえる。霞流は、息はしているが決して心地良さそうには見えない。
 怪我、ひどいのかな?
 消毒とかしなくてもいいのかな? もし傷口にゴミとか入ってたら、ヤバいんじゃないのかな? 霞流さんを突き飛ばしたところって、裏路地って感じで埃っぽそうで、間違っても衛生的な場所とかじゃなかったし。
 やっぱり病院に。
 だが美鶴は、動けずにいる。
 私が、突き飛ばしたんだ。
 私のせいだ。そんな私が、勝手に何かをしてもいいのだろうか?
 ユンミから逃げるなと睨まれた時、美鶴はその言葉に恐怖を感じながら、同時に唖然ともした。
 逃げるだなんて、そんな事、考えもしなかった。
 だって、こんな霞流さんを置いて逃げるだなんて。
 霞流に傷を負わせたのが自分だというのなら、自分が責任を問われるのだろう。警察という言葉に言い様のない恐怖も感じた。
 だが、その恐怖から逃れようとは思わなかった。
 だいたい、なんで私が逃げなくちゃならないのよ。そもそもは霞流さんが強引な事をしてきたからで、私はただそれが嫌だったから、だから。
 目の前で、霞流の胸が上下に動く。
 こんなの、ただの言い訳にしかならないのだろうか? 理由はどうあれ、霞流さんをこんなふうにしてしまったのは私なんだし。
 警察に行ったら、私はどうなるんだろう?
 そんな美鶴の思考を、低い声が遮る。
「冷たい」
 霞流の手を握り、ユンミが呟く。
「体温が下がってきてる。このままじゃやっぱりヤバい」
「ヤバいって」
「血も止まらないし、頭だし」
 美鶴の言葉など聞こえていないかのように、ユンミは切迫した声で続ける。そんな相手の後ろからそっと声を掛けてみる。
「やっぱり救急車呼んだ方がいいんじゃ」
「っざけんじゃないよっ!」
 ものすごい形相で振り返る。
「慎ちゃんが嫌がってるってのに、どうしてアタシ達が勝手に呼べるのよっ」
「だ、だって、このままじゃ大変な事になるんじゃないんですか?」
「そうだよ。大変な事になる。そうなった原因は誰だって言うんだよっ!」
「それは」
「だいたい何? アンタは慎ちゃんの何だっていうのよ。あんな暗がりに慎ちゃんを連れ込んで」
「連れ込むって、そんな、私は」
「何? 違うって言うの。サイテーだね。人に怪我させといて自分のせいじゃないって?」
「そんな事は言ってません」
「じゃあ何だって言うのよっ!」







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